from 19/04/17
贈り物は再会への道しるべ
Author: Saito Rei
カーテンを開けると、今の自分の気持ちとはとても不釣り合いな太陽の光が部屋の中を照らした。朝だ。西隼也は寝ぼけながら目をこすり、続いて頭をかいた。床の上に落ちるフケさえも、まるで自分を嘲笑うかのように太陽の光に反射してきらきらして見える。まったく、とんだ被害妄想だな、と思いつつも、どこかもやもやとした気持ちは常に心を支配し続けていた。いつ消えるかもわからない。そして、自分はそれから逃げることしかできない無力な存在だ。弱くてちっぽけな存在。前に学校で新聞紙を使って塔を創るというゲームをやった。とても脆くて、弱風でもすぐにバランスを崩して倒れてしまう。その塔のように、僕の心も少し風が吹けばあっという間に崩れ去ってしまいそうだ。いや、もう心なんて存在すらしないのかもしれない。時々そう思うことがある。でもよくよく考えれば、心がなんなのかがはっきりわからないから、本当に存在するのかどうかも疑問だけど。
去年の八月のあの日から、隼也は家にこもるようになった。休みが明けて学校が始まっても、登校することはなかった。もう何もかもが嫌になってしまい、心が荒んでしまったのだ。
時刻は九時を回っている。両親はとっくに仕事へ行っているころだろう。
ドアを静かに開けると、廊下の床にラップがかけられた朝ごはんが置かれていた。ここ最近ずっとだ。家族と食事をとっていない。いや、今の隼也の年頃ならそれも頷けるとしても、彼はそのような理由が必ずしもすべてではないと思っている。隼也は現在中学三年生。反抗期にさしかかり、親や大人をうっとうしく思う時期だ。ただ隼也の場合、家族と食事をとると必ず進路のことを言われるから嫌なのだ。引きこもりならなおさらそう言われても仕方ないと彼自身も思っているが、それでもやっぱり嫌なものは嫌だったのである。
朝食の乗ったお盆を部屋の中に入れる。今日も昨日と同じようなメニューだ。トーストにコンビニで買ってきたであろう小さなパックの牛乳。サラダにウインナー。バターとジャムは塗らずに別で分けておいてある。
隼也はのろのろとトーストにバターとジャムを塗った。あまり食べる気もしないが、腹が空いた時に干からびた朝食を食べたくもない。トーストを一口かじった。冷めている。
頭の中であの日のことを回想する。隼也はいつでもあの日に戻って、戻らない現実に身を委ねる。
友人の笑顔が脳裏をかすめ、ズキっと胸が痛んだ。もう思い出したくもない過去を、現実を、何度も再生してしまう心理はよくわからない。どんどん自分を傷つけてしまうことぐらいわかっているのに、やめることができなかった。
「もうすぐ一年か……」
つぶやきは空気に混じり、すうっと消えていった。空気の流れは止まっていても、時間が止まることは永遠にない。
その頃、野口正隆は教室で英語の問題集を解いていた。
めんどくさっ!
心の中でそう叫んでも、答えが自分の前に現れることはない。
高校入試の過去問。黄色と黒の表紙。ああ、見るだけで憂鬱になる。
正隆は英語が苦手だ。数学ならいいのだが、英語はさっぱりわからないのだ。この前のテストも散々たる結果で、このままだと希望する高校に入れるかが怪しい。
彼も中学三年生で、隼也の同級生である。というより、友達と言っていいだろう。昔はよく一緒に遊ぶ仲だった。現在は同じクラスであるが、隼也が学校に来ないせいで話をすることもない。かといって正隆の方から隼也の家にお邪魔することもない。二人の距離は開きつつあった。
「わからんっ!」
そう言って勢いよく問題集を閉じた時、担任が教室に入ってきた。朝のホームルームが始まる。
担任は何やらしゃべっているが、正隆の耳にはなに一つ届かなかった。
隼也は今頃何してんだろ。
そんなことを考えていた。ただただぼんやり考える。答えが出なくても、考える。彼は今、何をしているのか。
ちらっと隼也の席を見た。空席。あの席が埋まるのはいつになるのだろうか。もう卒業までずっとこのまま変わらなかったらそれはそれで悲しいけれど、仕方ないという諦めの気持ちもある。正隆は隼也の気持ちを理解しているつもりだった。
だが、本当に理解するのはとても難しいことなのかもしれない。
「隼也ー、あんた宛に届いてるわよ」
母さんの声だ。扉をノックする音が聞こえてくる。
「ここに置いておくからねー」
何も返事をせずにしばらく耳を澄ましていると、階段を降りていく音がした。よし。
隼也がドアを開けると、そこには白い封筒が置かれていた。拾って裏を見てみるも、差出人の名前は書かれていなかった。
なんだ、これ?
いつも通り部屋の扉に鍵をかけ、封筒を机の上に放り投げた。ハサミで開封しようと思い、引き出しの中を探るが見つからない。結局めんどくさくなって破ってしまった。
中から出てきたのは、何も書かれていないまっさらなディスクだった。プラスチックのケースに入れられている。念のためもう一度封筒の中を見てみると、一枚の紙が入っているのを発見した。そこには何かの文字が書かれている。
ズキッ。
それ見た途端、胸が痛んだ。
必死に蘇りそうになる過去の映像を制御する。心の準備ができていない時には思い出したくない。
「颯斗より……」
そう書かれていた。そして書かれていた文字を自然に口に出していた。
声は震えていて、まるで恐ろしい何かを見ているようだった。
「なんで……」
颯斗。国枝颯斗。あいつは死んだ。もうこの世にいないはずなのに、なぜだ。
去年の夏休み、隼也、正隆、颯斗の三人で海に遊びに行った。三人は昔から仲が良く、夏休みに海に行くというのは毎年の恒例行事のようなものだった。
でも……。
夕暮れ時だった。隼也たちは昼間に散々遊んだにもかかわらず、まだ海の中でじゃれあっていた。水を激しく掛け合ったり、持ってきた水鉄砲で相手を狙ったりして。そんな時、隼也は正隆と遊ぶことに夢中になっていて眼中になかったあることに気づいた。颯斗の姿が見えないのだ。彼は少し前にトイレに行くと言って一旦海から上がったのだが、それからもう三十分以上が経過している。いくらなんでも遅いと思い、二人でトイレを覗きに行ってみたが誰もいなかった。浜辺のどこかにいるのかと思い、隈なく探したが見つからない。日が暮れ辺りが暗くなってくると、もう捜索は不可能と判断し、大人と一緒に来ていなかったため近くの交番に駆け込み警官に事情を説明した。その日はそのまま帰宅し、新しい情報が入るのを待つことになったのだった。
でも、まさか颯斗が死んでいたなんて思ってもみなかった。先に帰ったんだろう、と呑気に考えていた自分がバカだった。
それから数日後、颯斗の遺体が見つかったという連絡が入った。あくまでも推測だが、波にさらわれて溺れたというのが死因の可能性としては高いとのことだった。
そんな……一体どうして……。
当然のことながら疑問が湧いた。遺体の状況から、まず他殺の可能性はないと警察から聞いていた。だとすると、颯斗は二人に気づかれないように海に入り溺れたことになる。では、なぜ颯斗は隼也たちのところに戻らずに別のところから海に入ったのか。想像を巡らせて思いついたのは、颯斗がいたずら好きの性格だったということだ。きっといきなり現れて隼也と正隆を驚かそうと計画し、二人に気づかれないように海に入ったが、結果的には波にさらわれてしまったのだろうと推測を立てた。それぐらいのことしか考えられなかった。たとえ他にどんな経緯で颯斗が死んでいったとしても、もう彼は戻ってこない。
隼也は回想をやめると、ディスクをパソコンにセットした。CDなのかDVDなのかが見た目だけでは判断できなかったため、とりあえずパソコンを使うことにしたのだった。今時のテレビはCDを聴くこともできるそうだが、隼也の部屋にあるテレビは旧式のものでビデオしか見ることができない。DVDプレーヤーもあったが、テレビにつなげていなかったため準備が面倒だった。
デスクトップにファイルが現れたので、早速それを開いてみる。何かの動画が添付されているようだ。題名はついていない。ビデオカメラのマークがついた白い四角があるだけだ。
そこをダブルクリックすると、いきなりノイズが現れた。ノイズ。灰色の砂嵐。ザーッという音がまるで滝の音のようだと思ってしまう。
しばらく観ていても何も起こらないので、隼也はディスクを取り出した。頭の中には『?』のマークだけが浮かんでいる。
誰かのいたずらか?
それ以外については特に何も思いつかなかった。第一に颯斗はもういないのだから本人がこれを送ってきたということはない。だったら別の人物に違いないけれど、こんなノイズしか映らない動画をいったい誰が何のために俺のところに届けたのだろう。
しばらく考えていたが、途中で嫌になってやめた。全てが面倒くさい。
「あーあ」
そう独りごちてから隼也はベッドにごろんと寝転がった。
ああ、エロビデオじゃなかった。
正隆はノイズの映るテレビ画面を見ながら軽くため息をついた。『颯斗』と名乗る人物からディスクが届き、初めは驚いたものの冷静に考えてみると本物の颯斗本人が届けたのではないことぐらい理解できた。では、同名の人物からか、それともただのいたずらか。ディスクの裏の光の反射色から届いたものがDVDであると判断したが、何も書かれていないことから、人を驚かせるような動画を仕組んだいたずらの可能性が高いとは思うが……。まあ、考えていても拉致があかないのでまずは観てみるかと思い、動画を再生したらこのさまだ。
「つまんねえの」
ディスクを取り出す前に、もう一度だけ画面を見つめる。何の変哲もないただの砂嵐。うるさい音声。全くいい迷惑だ。
と、その時だった。
一瞬何かが映ったような気がしたのだ。
「ん?」
じっと画面に集中して目を凝らしてみる。だが、やはり砂嵐のままだ。何も変わらない。
気のせいか?
正隆は巻き戻しをクリックして、三十秒ほど映像を遡らせた。
ザーーーーーーッ。
よく目をこらす。さっき、確かに何かが映ったはずなのだが。
しゅっ!
ここだっ!
正隆はまるで写真家が決定的な瞬間を写真の中に納めるように、素早く一時停止ボタンを押した。
そこに映ったのは、ノイズが軽く混じった何かの模様のようなものだった。
線……?
線で描かれた模様だ。文字のようなものも書かれている。画像が荒くてよくわからないが、何か図形のようなものではないかと推測した。
なんとかその正体を確かめたくて、しばらく考えた末に正隆はあることを思いついた。
ノイズを除去するのだ。
正隆は動画を作るのが趣味で、インターネットの大手動画サイトにも何本か作品を投稿したことがある。それなりの機器は揃えてあり、その中にノイズを除去する装置も確かあったはずなのだ。
押入れにしまいこんである数々の機械を引っ張り出し、懸命に目当てのものを探していく。
どこだどこだどこだ! あの装置は一体どこにあるんだ!
一つの機器を取り出しては確認し、数十回それを繰り返した時、やっとお目当てのものを掘り起こすことができた。
「あったあった!」
埃を被ってはいるが、まだ壊れていないことを期待する。
正隆は早速、機器を一時停止のままの画面が写っているテレビに繋いだ。祈るような気持ちでスイッチを入れ、無事に電源が入ったことにまず安堵する。
よかった……。
続いて、ノイズの除去にとりかかることにした。一つずつ皮をめくるようにノイズを除去していくが、画面にまだはっきりとしたものは映らない。だが、だんだんと色が白くなっていくのを見ていると、完全に模様が判別できるようになるのも時間の問題だと思った。
砂嵐の除去を繰り返しながら、正隆はつくづく思う。趣味をしている時の自分はこんなにも生き生きしているんだ、と。正隆は、勉強はそこそこできるが好きではなかった。それよりも自分の趣味に熱中したり、仲間と遊んでいる方がよっぽど楽しかった。颯斗が生きていた頃は隼也も含めて三人でよく遊んだ。将来はみんなでバンドを組んでデビューしよう! なんていう夢までつくった。三人ともいろいろな趣味は持っていたが、音楽が唯一、一つだけ共通していた趣味なのだ。颯斗はギターが弾け、隼也と正隆は歌が好きだった。気に入った洋楽の歌詞を覚えて、颯斗がギターで弾く伴奏に合わせて歌ったりもした。あの頃が懐かしい。過去に戻れたらどんなにいいか。不可能だとわかっていても、憧れてしまう。
だが、颯斗の死をきっかけに夢は廃れた。三人の関係はバラバラになり、お互いが離れていった。隼也はショックで引きこもりになってしまったし、正隆は正隆で、特にこれといった夢も見つけられないまま、親が決めた高校を受験するために勉強をしている。特に両親に進路を決められても嫌ではなかった。もう何もかもがどうでもよかった。説教をされるのが嫌で口に出してこそ言わないが、結局はそういうことなのだ。人の死、それも友人の死がもたらすものは、心を切り裂かれるような痛みと、もう永遠に会えないという喪失感だった。突然の別れ。その前の日までは何事もなく、喋って、ふざけあって、とりとめのない話で盛り上がった日々が続いていたのに、その日を境にしてまるで違う世界に移り住んだかのように、何もかもが変わってしまった。
目から流れ落ちるものの感覚が嫌で、正隆は片腕を両目に当てる。数秒そうした後にテレビの画面を見ると、いつの間にかノイズの除去は終了していた。
「これは……」
画面に映っていたものは……一体なんと言えばいいんだろう。予想通り図形ではあったが……そう、あれだ。設計図だ、設計図。図面と図面の隙間には細かい文字でいろいろな説明も書かれている。それを見て頭がくらっとしたのは、その文字が運の悪いことに正隆の大嫌いな英語だったからだ。
「全然読めんし」
正隆はそう言いながら停止ボタンを押した。そして再び初めから再生する。この動画は全部で一時間ぐらいの長さがあるが、すべてがこの画像なのかと疑問に思ったのだ。
初めから早送りをしてみていくと、約十分間隔で画像が切り替わることがわかった。十分間は同じ設計図の画像が続き、次の十分は別の設計図の画像が映される。計六枚の設計図の画像がこの動画の中に収められていたのだ。
「すげえ……」
正隆は我ながらの天才さと、謎の設計図の出現に感嘆していた。そして新たな発見をしたという達成感もある。なんだか胸がわくわくしてきた。
続いて正隆は俊敏な動作でタブレットを取り出しケーブルを使ってテレビに接続すると、ノイズ除去済みの動画をそちらにコピーし始めた。
これはあいつに知らせなければ!
コピーの終了が告げられると、正隆はさっとディスクを取り出してそれをプラスチックのケースに収めた。そしてタブレットとディスクを鞄に放り込み、一目散に家から飛び出していったのであった。
ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。来客なんて久しぶりだ、なんてことを思いつつ、いつものように居留守を使う覚悟はすでにできている。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
しつこいっ!
まさかのストーカー? と半ば冗談のつもりで二階の自室から窓の外を見て見ると、案の定予想は見事にはずれた。
正隆……?
「隼也ー! いるんだろー!」
声がでかいし、近所迷惑だし、いったい何の用だってんだよ。早く帰れっつうの。
「隼也ー、隼也ー、隼也ー!」
だーっ、もう!
隼也は堪えきれなくなり、窓を勢いよく開け放った。
「いったい何なんだよ!」
大声を張り上げたせいで道を行き交う人々がこちらを振り返る。途端に顔が真っ赤になった。正隆はあっけにとられてぽかんとした表情をしている。
久しぶりだな、こんな大きな声を出したの。ふとそう思った。今まで溜め込んでいた気色悪いもやもやした気持ちを一気に吐き出したようで、少しスッキリしたようにも感じる。
「なに?」
少し声のボリュームを落として再び正隆に話しかけた。正隆はハッとして我に帰ると、
「あ、悪りぃ悪りぃ。ちょっと聞きたいことがあってさ」
屈託のない笑みを浮かべながらそう答えた。その笑顔がなんだか懐かしい。
「上がっていいか?」
少し迷ったが、
「……いいよ」
一応了解した。と同時にストーカーじゃなくてよかったと、どうでもいいようなことを考える。
隼也は玄関の鍵を開け、正隆を家の中に招いた。二階の自室に案内し、中から鍵をかける。
「なんか、お前と会うのも久しぶりだし、お前ん家に来るのも久しぶりだな」
正隆が興味深そうに隼也の部屋の中を見渡しながら言う。服は床に脱ぎ捨てられたまま散らかっているし、学習机の上の面積はプリントの膨大な山で埋まっている。棚には大量のフィギアが並び、漫画の本が乱雑に押し込められている。魅力的なものなんて何一つない。
「……何の用?」
隼也が蚊の鳴くような声でそう発すると、正隆は白い封筒を隼也に見せてきた。
「これ、うちに届いたものなんだけど、もしかして隼也ん家にも届いてないかと思って」
心の中では驚いていたが、表情には出さずに、
「これ?」
床に落ちていた封筒を拾い上げ、正隆に見せる。
「あ! やっぱりか!」
正隆は心底驚いているようだった。
「やっぱり隼也にも届いてたんだ! 差出人は颯斗になってるだろ?」
「うん」
正隆はそれを聞いてさらに目を輝かせた。
「でさ、俺、そこから奇跡的な発見をしたんだけどさ」
「……発見?」
「そう、発見。まあ見てくれよ」
正隆はそう言うと、手に持っていた合成皮革の鞄の中からタブレットを取り出した。電源を入れ、軽い操作を行うと、何かの画像が現れる。
「何これ」
「送られてきたDVD観たか?」
「うん」
「あれノイズ入ってただろ?」
「うん」
正隆は一旦そこで言葉を切り、得意げな顔をした。
「実は俺、そのノイズをしばらく観ていたら、一瞬だけそれが消えるところがあることを発見しちゃってさ。それで、ほら俺って映像つくるの趣味だったじゃんか。だからノイズをとったらなんか現れるんじゃないかって思って、そういう機械を使ってノイズをとってみたんだ」
興奮しているようで、少し早口になっていた。
「それで?」
「そしたらこんな画像が出てきた。この動画は約一時間の長さがあるんだけど、十分ごとに違う画像に変わるようになってる。だから計六枚の画像がこの中に収められていることになる」
「で、これは何?」
隼也はタブレットの画面を覗き込んだ。
「なんかの設計図だと思う。解説らしきものも書いてあるけど、おれ英語できないからさ。おまえ英語得意だったろ。だからここに持ってきた」
確かに隼也は英語ができた。洋楽にはまりだした頃からいろいろな曲の歌詞を覚えたくて、自ら辞書で調べながら単語の意味を理解していったのだ。そこから英語に興味を持ち、成績もかなり上をキープすることができていた。
ただ、かれこれ一年ぐらいは学校に行っていないため、英語力が落ちている可能性もある。ここのところ洋楽を聴くこともなくなり、歌をうたう機会もないことから少し心配だった。それを正隆に伝えると、
「大丈夫だって! お前ならやれるっ!」
なんの根拠もない励ましの言葉をかけられ、特に喜ぶべきでもないのに、なぜか少しだけ嬉しく感じてしまった。ここしばらく人との関わりが全くといっていいほどなかったからかもしれない。
「これ造ろうぜ」
「は?」
「だから、これを造るんだよ。俺たちで」
「……そんなん、できるの?」
隼也がぽつりと呟くと、
「できるできるっ!」
と、正隆は隼也の肩をバンバン叩きながら言った。まったく、この自信は一体どこから来るのだろう。
「でも、これ本当は颯斗が送ってきたものじゃないでしょ? こんな誰から送られてきたかわからないようなやつを組み立てるのって危険じゃない? もし爆弾とかだったらどうす」
「大丈夫だって! もしなんかやばそうだったら途中でやめればいいんだし」
隼也は何も返せなかった。まあ、確かにそうだが。
表向きは乗り気ではない隼也も心の中ではわくわくしていた。まさかこんな展開になるなんて思ってもいなかったし、実際に造ってどんなものができるのかも想像できず、好奇心が先を行くばかりだ。
こうして二人でその装置を完成させることが決まった。
隼也の家だと部屋の掃除から始めなければならないということで、装置の製作には正隆の家を使用することにした。隼也は約一年ぶりに外に出て、まず直射日光が眩しすぎて十秒ぐらい目が開けられず、その場で立ち止まってしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
正隆の声だけが聞こえてくる。
「ずっと外に出ていなかったから」
ゆっくり顔を覆っていた手を外し、明るさに慣れるように努めた。たった一年で人間はこんなにも変わってしまうものなのか。
しばらく通りを歩いていくと、隼也はある発見をした。
あれ、ここの店潰れてる。
隼也がまだ不登校になる前には営業していた中華料理屋だった。一度だけ家族で来たことがあるが、味は不味くも美味しくもないといったところで、そう何回も来たいとは思わなかった。
街の変化を感じながら、外の空気ってこんなに清々しかったっけ、とも思った。冬眠を終えた熊の気持ちなんてわからないけれど、なんだかそんなイメージに近いような気がしていた。
やがて正隆の家の到着し、彼の自室に入った。隼也の部屋とは大違いで、綺麗に整理整頓されている。床には埃ひとつ落ちていないような気がして、思わず目を見張ってしまう。
「すごく片づいているね」
「俺の母ちゃんが綺麗好きでさ。でも勝手に部屋に入って掃除されるの本当に迷惑」
適当な雑談を少ししてから、まずは設計図の印刷から始めることにした。タブレットとプリンターをケーブルで繋ぎ、一枚ずつ印刷をしていく。印刷の間は不思議な緊張感というか、これから何が起こるかわからないような不安と期待が入り混じった時間が流れていた。
全ての印刷を終えるのは三分とかからず、さっそく次の作業にとりかかった。隼也の出番である。一枚目の設計図に目を通し、英語の説明文を読み始めた。思ったほどの引っかかりもなく、意外とすらすら読めることに自分でも驚いてしまう。英語力はそれほど落ちていなかったのだ。
一通りざっと設計図六枚の説明を読み終わり、それらを床に置いた。
「なんか直径十センチの四角いプラスチックの板とか動線がいるらしいよ。あとモーターも」
「モーターがいるってことは、なんか動くものなのか?」
「んー、タイヤみたいな車輪はついていないから、動くことはないと思う。なんか立方体のようなものができるらしい。あ、あと豆電球もいる」
正隆が少し考える仕草をして呟いた。
「なんか、理科の実験みたいだな……」
正隆がにっと笑ったので、隼也も軽く口角を上げてみた。日ごろ笑うこともなかったので、頬の筋肉が少し重たく感じた。
「よし、じゃあホームセンターとかで買ってくるか。隼也はいるもの全部紙に書いといて」
「正隆は?」
「俺は貯金下ろしてくるわ。あ、別に金は俺が払うからいいよ」
隼也は少しためらいながらも軽く頷いた。こういう太っ腹さが正隆のいいところだ。いつか三人で遊んだ時にもジューズを奢ってもらった記憶がある。
正隆は一枚の白紙の用紙とシャーペンを隼也に渡すと、じゃ、よろしく、と言ってドアを開けた。
正隆が出て行ったあと、隼也は早速六枚の紙を見ながら、必要なものの名前を正隆が渡してくれた紙に書き始めた。装置の完成が待ちきれなくて、思わず文字を書くのが早くなってしまう。こんなにも好奇心を揺さぶられたのは久しぶりだと思い、今日を久しぶり日和と名づけたい気分になった。
ホームセンターで全ての材料を揃えるにはそれなりに高くついたが、正隆は何の文句も言わずに全額負担してくれた。本当に感謝だ。隼也なら途中で嫌になってすべてを放り投げてしまうだろう。
再び正隆の家に戻り、作業を開始した。買ってきた材料や工具を並べる。こういう組み立て作業は正隆の方が強かった。なので隼也が図面を解説し、正隆が組み立てるという、いわば二人三脚状態で作業を進めることにした。
「ここはどうやるんだ?」
「この小さいドライバーを使うみたい。まずこれをはめ込んでから次にそれを使って……」
気がつけばもう日が暮れかけていた。この日だけでは完成できないと悟ったため、組み立ては次の日へと持ち越されることになった。
それが何日か続き、意外に時間がかかるな、と二人して思ったが、諦めることはなかった。興味の方が強くて、とにかく早く完成させたいという気持ちが二人の中にあったからだ。
作業を終えた後の帰り際には毎回のごとく正隆が、そろそろ学校こいよな、と言ってきたが、不思議なことに嫌な気持ちにはならなかった。両親に言われたらものすごく腹が立つのにもかかわらず、この違いはいったい何なんだろうと疑問に思った。ただそれは、そういう正隆の表情が何となく寂しそうに見えたからなのかもしれない。正隆の学校での交友関係を詳しく聞いたことはないが、きっとあまりクラスとも馴染めていないのではないかという勝手な推測を立てた。そうじゃなければあんな顔をすることはないと思う。
でも、隼也はまだ学校に行きたい気持ちにはならなかった。自分でもどうすればいいのかわからないのだ。確かに外の世界は自分が思っていたよりも気持ちよかったし、うきうきもした。でも、学校はまた別だ。クラスメイトがいて、先生がいて、毎日毎日繰り返される授業もある。正直つまらないし、めんどくさい。とか言いながら、けっきょく自分は逃げているだけなのだろうか。いや逃げてない。でも逃げている気もする。そんな自問自答を繰り返し、装置の組み立てを進めていく日々だった。
やがて夏休みに入り、颯斗の命日のちょうど一週間前に装置が完成した。白いプラスチックの立方体で、上の面の丸い穴から豆電球が一つ顔を覗かせている。中にはモーターやら動線やらが複雑に入り組んでいて、後から考えればよくこんなもの造れたなというように感じた。
だが、その装置にはスイッチらしきものがついておらず、どうやって起動させるのかが二人にはわからなかった。勝手に作動するにしても、いつどんな時に動き出すのかも設計図には書かれていない。
「やっぱり誰かのいたずらだったんじゃない?」
隼也が四角の白いキューブを眺めながら言った。
「んー、その可能性もあるかもしれないけど、こんな凝ったいたずら普通するか? 第一なんのために?」
しばらくの沈黙の後に正隆の返答に対して、わからん、とだけ答えておいた。
隼也から颯斗の命日に海に行かないか、と誘いをうけたのは装置の完成から三日後だった。夜に電話がかかってきて伝えられたのだ。正隆は正直驚いていた。隼也は一年近く不登校で、すっかり引っ込み思案になってしまったとばかり思っていたのに、いきなりそんなことを言い出すとは。だけど、隼也にとっても大きな決断だったのだと思う。それなりに悩んで、考えた末にたどりついた答えなのだろう。
「お前がそう言うなら俺ももちろん行くよ」
正隆はそう返事をした。普段なら開放感あふれる海でも、自分の友達が死んだ場所となると開放感なんて感じられないかもしれない。だけど外に出るのは隼也にとってもいいことだと思うし、そして何より過去から目を背けたくなかった。
電車代は自分で出す、と隼也は言った。それを聞いただけで隼也が少し成長したように感じて、不思議と暖かい気持ちになる。まあ、それが本当は普通か、と思い、一つ返事で了解した。
海に行く日の朝は晴れていた。ところどころに雲は浮かんでいるものの、天気予報が今日は一日中晴れると言っていたから心配ないだろうと思った。
一週間前に完成させた白いキューブは正隆が預かっていて、それも持って行くことにした。その装置が颯斗からの贈り物だと信じているわけではないが、なんとなくそれが颯斗の一部に思えてきて、あるいは装置が完成したのをもう今はいない颯斗に見せるつもりでそう決めたのだ。
近くの駅で待ち合わせをし、そこから電車で約一時間。友達が死んだ場所に向かうのにあまり緊張しなかったのは、隣に同じ思いをした友人がいるからなのかもしれない。
海に近い小さな無人駅で降りたころにはすでに十二時を過ぎており、二人はコンビニでおにぎりと飲み物を買ってそれを昼ごはんにした。微かに匂う塩の香りから海が近いことがわかる
昼食の後、海に続く道をたどって行った。なんとなく海に近い街はのんびりして見えるのが正隆は印象的だった。あまり日本らしくないヤシの木が植わっているし、この辺りはクリーム色の家々が立ち並んでいる。
「もうすぐだね」
隼也がぽつりと呟いた。
「ああ」
そう返した後は会話が続くこともなく、二人は黙々と目的地に向かって歩き続ける。大空を自由に迂回するトンビの姿がなんだか羨ましく感じた。日々の息苦しさから解放される日を夢みて生きても、けっきょく死ぬまで何も変わらないんだなと、自分でもよくわからないような感慨にふける。
やがて、視界がひらけた。薄く黄色がかった浜辺に、コバルトブルーの海。優しく顔をなでる潮風。こんなところで気持ちが安らいでは、なんとなく亡くなった颯斗に悪い気がして軽く気を引き締めるが、やはり目の前の景色にはかなわなかった。
颯斗の死亡推定時刻は六時十分ごろだとされている。それまではまだかなり時間があるので、二人はいちど浜辺に腰をおろすことにした。
「もう一年になるんだな」
「ああ」
そう答えた後、正隆は柔らかな砂を両手ですくって砂時計のように落としてみる。時間って止まらないんだな、なんて当たり前のことを考えてしまい、少し変な気持ちになった。
「学校、楽しい?」
隼也の唐突な質問に正隆は少し焦った。
「が、学校? 別に、ふつーだけど」
「ふうん」
隼也は海の方をぼーっと眺めている。太陽の光が反射して、まるで金を散りばめたように海面が輝いて見えた。波は行ったり来たりして常に同じ動きを繰り返す。それなのにどれだけ長い時間見ていても飽きない気がした。
正隆自身、本当は学校を楽しいとは思っていない。むしろ行きたくないと思っている。でも毎日家にいたって特にすることもない。颯斗がいなくなってからは何をするにも気力が失せてしまったのだ。だから機械的に学校に行って、淡白な人間関係の中で溺れ、親のいいなりになって自分は何も考えず、日々だらだらと勉強する。それが正隆のここ一年の日常だった。本当は隼也がいてくれればそれなのに楽しく過ごせるかもしれないと思ったりもしたが、彼を無理やり学校に連れて来ることもできなかったし、そうしたくもなかった。隼也の気持ちも理解できなくはないからだ。
「隼也は学校嫌いなのか?」
彼は一度だけ正隆の方を見てから、再び視線を海の方へと戻した。
「嫌いっていうか、もう全てがめんどくさくなっちゃって。どうでもいっか、みたいな。うまく言えないけど」
「まあ……わからなくもないな……。俺も実際そんな感じだし……」
何も考えずに鞄の中からキューブを取り出して眺めてみる。一体これがどんな働きをするのか、全く予想がつかない。
ふと誰かの声が聞こえ、そちらの方を振り向くと、三人の小学一年生ぐらいと思われる少年たちが近くで水のかけ合いをしていた。少し離れたところに彼らの母親らしき人物が三人、微笑ましい表情で自分の息子たちの様子を眺めている。昔は俺たちもあんな感じだったんだよなと、しばらくのあいだ感慨にふけった。
「洋楽、最近聴いてないのか?」
三人の少年たちから目をそらし、隼也の方を見る。
「あんま聴いてない。正隆は?」
久しぶりに名前を呼ばれた気がして、少しだけ心が温かくなった。
「俺もだよ。勉強で忙しくてさ」
ここ一年は音楽からも離れていた。でも、完全に興味を失ったかといえばそうでもない気がする。ただ、ミュージシャンになって成功するのはそんなに簡単じゃないということは、時が経つごとにだんだんとわかってきた。テレビのワイドショーではよくバンド関連の苦労話を放送しているし、食べていけるのはほんの一部の人間だという音楽業界の厳しさも図書館から借りてきた本から知ることができた。
「バンドの夢は、難しいかもな……」
しばらくの沈黙があった。
「うん」
小さな小さな隼也の返事が耳に届く。彼はまだ諦めていないのだろうか。ミュージシャンの夢を。
「趣味程度ならいいかもね」
再び隼也が呟く。
「確かにそうだな」
正隆はそう言いながら立ち上がった。
「ちょっとそこらへん歩かね? ずっとここにいてもつまんないし」
「わかった」
それから二人は浜辺だけではなく、街の方まで歩いていった。港にはなぜか野良猫がたくさんいて、正隆が驚かすと逃げていく様子が可愛らしかった。途中で古ぼけた喫茶店で少し休憩し、それからまた海の方へと戻っていった。
日が傾きかけている。時刻は六時ぴったしだ。あの日から完全に一年が経つまで、あと十分。
「これまで色々あったけど、これからもよろしくな」
正隆が片手でキューブを掲げながらそう言うと、隼也が微かに笑って言った。
「なんか、ものすごく変な感じ」
正隆も隼也の笑顔につられて笑ってしまう。
「何が変なんだよー。俺はいつでも真剣なんだぞ」
「わかってるよ」
隼也は完全に笑っていた。隼也の笑顔を久しぶりに見れて胸に込み上げるものを感じた。
「そうこうしてるうちに、あと一分だよ」
「げっ、もうそんな時間か?」
正隆はそう言うとキューブを両手で持ち、胸の前に持ってきた。
「なんかのおまじない?」
「いや、ただなんとなく。落ち着くからさ」
空の色の鮮やかなピンク色とオレンジ色のグラデーションが心を震わす。こんな色を絵の具でつくるのは難しいだろう。たとえ作れたとしても、自然の美しさにはかなわないのではないかと思う。
目の前の風景をしばらくみていると、なんだか胸のあたりが変な感じになった。もやもやとした感覚ではなく、それでいて爽快な気分というわけでもなく、言葉で言い表すなら胸がじんじんするといったところか。
感動するというのはこういうことを言うのかもしれない。長い間忘れていた感覚を少しだけ取り戻すことができた気がして、今度は胸が熱くなった。
「あと十秒」
隼也がカウントダウンを始める。
「九、八、七、六、五、四……」
色々あった。本当に。
三、二、一……。
ゼロ!
その瞬間だった。正隆の両手の中に収まっていたキューブの豆電球が、まるでカメラのフラッシュが光るように強烈な光を放ったのである。
「うわあああっ!」
二人はそのまま意識を失った。
ザザーーーン。
ゴォォォォォォォ、ザザザーーーーン。
波の音が聞こえる。静かに鼓膜に響き、ここは夢の中だろうかとふとあたりを見る。さっきいた浜辺だ。黄色がかった砂浜の上に自分は倒れている。上体だけ起こして、真っ先に視界に飛び込んできたのはコバルトブルーの海。
頬をつねってみる。痛い。これは夢じゃなく現実で、自分は意識を取り戻したということがわかった。近くに落ちている白いキューブを見つけ、ついさっきの状況を思い出した。カウントダウンがゼロになった時にキューブが急に光って、二人とも意識を失ったんだっけ……。
ふと隣を見ると、正隆が倒れていた。
「正隆、起きてよ。正隆」
ゆらゆら体を揺らすと、微かに呻き声を漏らしながら正隆が起き上がる。
「んん、一体何が起きたんだ?」
「わかんない。キューブが光ってから気を失ってたみたいで」
それからどれくらいの時間気絶していたのだろうか。腕時計を見ると、時間は六時十一分だった。それほど時間は経っていないようだ。空の色のグラデーションがあまり変わっていないことからも納得がいく。
ただ、ものすごく静かだった。波のさざなみや風の吹く音は聞こえるが、まるで自分たちだけがこの世界に取り残されたような気分だった。
「あ、あれ!」
突然、正隆が叫んだ。彼の指差す方向を見ると、そこで何かが揺れている。そしてこちらに近づいてきている。二人は立ち上がった。
何かがこっちに来る!
そして、現れたのは……。
「よう、久しぶり。二人とも」
死んだはずの友達が、そこにいた。
「は、は、颯斗!」
あまりの驚きに、現実を受け入れることができない。いや、これは果たして現実なのか。でもさっき頬をつねって痛かったから、夢でないことは確かだ。
「ななな、な、なんで?」
正隆も同様に混乱している。一度死んだ人間が、いま目の前に立っているのだ。驚かない方がどうかしている。
「あれ」
颯斗が指差した先に転がっていたのは、あの白いキューブだった。
「あの機械の設計図送ったの、俺だから」
颯斗が満面の笑みを浮かべてそう言う。その表情は誇らしげなものではなく、いつも通りの二人に見せる笑顔だった。
「な、何それ? どういうこと? ちゃんと説明してよ」
隼也が説明を求める。一体なにがなんだか全然わからない。
「あまり詳しいことは言えないけど、あの装置は生きた人間をこっちの世界に連れて来ることができるやつなんだ。俺が発明したんだぜ」
二人とも、はー、という顔をしている。まるで信じられないけど、颯斗が言うとどこか説得力があった。
「こっちの世界って、ここが颯斗の住む世界なのか? 俺たちみたいな生きた人間が暮らすところと一緒じゃん」
正隆が早口で質問する。
「まあ大体一緒だな。俺も最初はそう思ったよ。なんか死者の世界は生きた人間の世界のパラレルワールドみたいな感じで、特に変わったところはないんだ」
じゃあ、いま自分たちがいるこの場所は死者の世界なのか。生きた人間が生活する世界ではなく。
颯斗が海の方に顔を向けた。半袖のシャツに短パンを履いている。はたから見れば生きた人間と変わりなく見えるのに、颯斗はもう死んでいる。本当に目の前に颯斗がいるのかどうか確かめたくて、隼也は彼の手に軽く触れた。
「ん?」
「いや、颯斗が幽霊じゃないかと思って」
そう言うと彼は、ぎゃははっ、と笑った。
「幽霊じゃねえよ。ちゃんと足ならあるぜ!」
颯斗は裸足だった。砂のついた足を軽く持ち上げてみせる。
ずっとこのまま時間が止まればいい。生きていて初めて心からそう思った。大人になることもなく、ずっとこのまま三人で過ごしたい。笑って、喋って、遊んで、時には喧嘩して……。それができたらどんなに幸せだろう。時には行き違いがあろうとも、それも幸せのうちだと思いたい。
当たり前の日々が本当は幸せなんだと気づいたのは、大切な人を失ってからだった。人が生まれた後は死に向かっていくように、始まりがあれば終わりがある。その繰り返しを記憶と呼ぼう。幸せな記憶、辛い記憶、恥ずかしい記憶。いろんな記憶があるのだろうけれど、今の時間の流れは幸せな記憶として残されていくのだと思う。それでいて少しの寂しさを完全に拭えないのは、いつか別れがくるという悟りをどんなに頭の片隅に追いやっても抹消できないからだ。
「なんで、俺たちを呼んだんだ?」
正隆がそう聞くと、颯斗がふっと笑った。どこか寂しそうな笑みだった。彼もまた、いつかは来る別れのことを考えているのだろうか。
「俺がいなくなってから、二人ともバラバラだったろ? 隼也は不登校になっちまうし、正隆は正隆でなんかてきとーっていうか、ぼんやーり日常を生きてるっていうか」
太陽が遥か彼方の水平線に隠れ始めている。
「見てたんだ」
「ああ。二人の世界からこっちは見えないけど、こっちからは二人の世界が見えるんだ」
一旦話を切った颯斗は、その場に腰を下ろした。二人もつられて浜辺に座る。
「そりゃあ、友人が死んだんだから、二人のようになるのも無理はないと思ったけど、なんとかよりを戻して欲しかったっていうか、なんかこのままじゃいけないような気がしたんだ。だから色々考えて、二人がこっちの世界に来られるような装置を開発した。その設計図を少しひねった感じで二人に送って、二人で協力して造ってくれることを願った」
ひねった、というのは、ノイズの裏に設計図を隠したことをいうのだろう。
「もしその仕掛けに俺たちが気づかなかったらどうするつもりだったの?」
「特に考えてはなかったかなー」
適当かいっ!
隼也は思わず心の中で叫んでいた。
「まあでも俺の望み通り二人は協力してくれたし、よかったじゃん。隼也は久しぶりに外に出てくれたし、正隆は生き生きとした自分を取り戻してくれた」
颯斗がキューブを拾い上げる。
「装置が完成したあとは俺の命日を待つだけ。その日の六時十分になったら、この装置が二人をこっちの世界に運んできてくれるってわけさ」
「じゃあ、颯斗は俺たちにその装置を協力して造ってもらって、かつ、もう一度三人で会うためにこの計画を思いついたってこと?」
「ま、そゆことー」
……さすが颯斗だ、と思った。
昔から颯斗は秀才で、なんでもできた。勉強もスポーツも、楽器演奏さえもオールマイティにこなす姿には、すごいという気持ちを通り越して尊敬の念すら覚えていた。その本人がいま自分の目の前にいる。生きていると言えるのかどうかはわからないけれど、とにかく存在はしている。話したいことは山ほどあるのに、何を喋っていいのかわからない。
「すごいな……」
隼也がポツリとつぶやく。
「ん? なに?」
「いや、やっぱ颯斗はすごいなって思ってさ。昔から何でも一番だったし、何でもできたし……」
「まぁーな。でもそれなりに悩みもあったさ」
「颯斗が悩み? 嘘だろ?」
正隆が問う。昔の颯斗はいつも眩しくて、悩みなんかこれっぽっちもないように見えた。
「本当にあったさ。何でもできるのは周りから見たらかっこいいとか、憧れの存在だったりするのかもしれないけど、こっちにしてみれば逆にそれがプレッシャーだったりする」
颯斗は目を細め、手に持っていたキューブを見つめた。
「それに俺さ、けっこう友達いるようでいないんだぜ? みんなうわべだけの人間関係。やっぱみんなどこか俺のこと遠くから見てる感じで、二人と出会う前までは普段は明るく振舞っていたけど、やっぱりちょっと寂しかったな」
そして颯斗は二人の方を見てから軽く目をそらし、
「本当に仲良くなったのはお前ら二人とぐらいだ。ありがとよ」
と言った。かすかに顔が赤くなったのがわかる。
颯斗の言葉を一つ一つ噛み締めると、不意に鼻の奥がつんとして目が潤んだ。恥ずかしさから慌てて目を拭う。
「おいおい、なに泣いてんだよー」
颯斗が茶化すように隼也の頭をコツンと叩く。颯斗の動作も、声音も、全てが懐かしい。
「別に……泣いてないから」
隣の正隆を見ると、彼も鼻をすすっていた。
「二人ともだっせぇなー」
そう言う颯斗の姿は涙であまりよく見えなかったけれど、声が震えていたことから、彼も泣いているのではないかと思った。誰もそれを咎めるものはいない。今は泣いていい時で、泣くのが自然なんだと思う。普段は泣くのなんて恥ずかしいと思っている僕たちも、今はどれだけでも泣くことができた。
でもなんで泣いているのかが正直よくわからなかった。颯斗と再会して嬉しい気持ちと、また別れなければならないという悲しい気持ちと、いろんな感情がごっちゃに混ざっている。それでも、やっぱり嬉しい気持ちの方が強かった。これは、歓喜の涙だ。
「もうすぐ、お別れだ」
颯斗が目をこすりながら言う。
「もう? まだぜんぜん話し足りない」
「俺も」
隼也と正隆が口々に言った。
「あまり長くは無理だ。これは現実の掟を曲げていることになるからね。死んだ人間に会うことなんて、普通に考えたらできないだろ?」
「でも……さ……」
「俺はこっちの世界でちゃんとやっていくし、いつでも二人のことは見てるから。お前らもがんばれ。いつでも応援してるからさ」
少しの沈黙の後、二人は無言で頷く。
「あと、バンドの夢はどうした?」
意外なその質問に隼也と正隆は顔を見合わせた。隼也がゆっくりと颯斗の方を向き、
「今のところは……特になにも考えてない」
ずずっと鼻をすすりながら言う。
「まあ、そこらへんは二人に任せるけど、俺としてはデビューしなくとも趣味程度には続けて欲しいと思ってる。やめちゃったらなんか、こう、寂しいだろ」
二人が相槌を返す。
「わかった」
「了解」
颯斗が、ふーっと息を吐き出した。言いたいことは全部言ったような、どこか満足した表情だった。
「もう、会えないのか?」
正隆の言葉の後、数秒間の沈黙があった。ずっと気になっていたことだけど、聞かないわけにはいかない。
颯斗は少しためらうような表情をした後、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……そうだな。今度会えるのは二人が死んでこっちの世界に来た時だ。生きている間はもう会えない。これは一回限り使える魔法なんだ」
颯斗が正隆に魔法をかける真似をした。その格好がなんだかおかしくて、隼也はつい笑ってしまった。
「なに笑ってんのかなー、隼也くん」
「べべべ、べっつにー」
そのあとは三人で笑いあった。笑いをとめたらもうこの世界に戻れないような気がして、無理やり笑っている自分がいる。
水平線の向こうに太陽が完全に隠れ、星が瞬き始めた空が三人の笑い声を吸収していく。
永遠というものは存在しない。必ず終わりは訪れるのだ。
「そろそろ時間だ」
颯斗が手に持っていたキューブを隼也に渡した。そして、
「ありがとう」
頰にきらりと輝く一滴の涙を伝わせ、彼はそう言った。優しい声音だった。
「こちらこそっ!」
隼也と正隆の声が同時に重なった。そして、それが最後のやりとりになった。空に一瞬流れ星を見たかと思うと、あたりは瞬時に強烈な光に包まれた。
二人は浜辺の上で倒れていた。目を覚ますと、まず一番に空に無数の星が輝いているのが見えた。あの星のどこかに颯斗がいるなら会って見たい気もするけど、そういうことじゃないんだよな、と彼との別れを惜しみながら思う。
手に持っていたはずのキューブはいつのまにかなくなっていて、そのことからきっとあの設計図やDVDも、もうこの世には存在しないのだということが推測できた。
やがて正隆も目を覚まし、二人でそれぞれの家路に着いた。その日は疲れのせいか、夕食の後は風呂に入るのも忘れてそのまま寝入ってしまった。
夏休み明けから、隼也は学校に行くことにした。はっきりとした将来の夢があるわけではないが、一応それなりに学校だけは行こうという気持ちが芽生え始めたのである。初めのうちこそ緊張したものの、クラスには正隆もいて一週間もすればすぐにみんなと馴染むことができた。これも応援してくれた颯斗のおかげだ。
正隆は映像関係の仕事に就きたいという夢を語った。今までは親に勧められた高校を受験しようと考えていたそうだが、新しい夢も決まったことから、その夢の実現に向けてもう一度進路を再検討するという。そう話す彼の表情はこれからの期待に満ちあふれていた。
バンドも一応、趣味程度ではあるが続けている。休日には二人で好きな曲をCDに合わせて歌ったり、ライブのDVDを観たりして過ごした。受験期が終わったらもう少し本格的な活動もしてみたいと考えている。
ありがとう、颯斗__。
隼也と正隆の心の中で生きる彼は、今日もいつもの笑顔で二人に微笑みかけていた。