top of page

 私には殺したい人がいる。うちのおじいちゃんだ。よく介護で疲れたから心中しようと思った、などというニュースを耳にするが、うちのおじいちゃんは寝たきりというわけではない。まだ歩けるし、自分で食事を作ることもできる。でも嫌なのだ。彼を見ただけでも嫌悪感がするし、無性に殺したくなる。

 私が幼い頃はまだよかった。これほどの殺意には駆られなかったし、おじいちゃんとも仲がいい方だった。でも私は成長するにつれて、彼の嫌なところばかり目につくようになった。彼はいたるところを汚す。お母さんが一生懸命そうじして綺麗にしたところもすぐに汚す。トイレで、大便の後はさすがにないが、おしっこの後は水を流さないし、しかも彼は扉を開けっ放しにして用をたす。お母さんが何回注意しても、初めはいうことを聞いていてもすぐにまたもとに戻る。とても腹が立って仕方がない。ことあるごとに心の中で、くたばれくそじじぃ! と罵る日々だった。

 私がこの手記を書こうと思い至ったのは、ただ鬱憤を晴らしたかったからかもしれない。だからここでは自分に正直になって胸の内に溜まったこのどうしようもない気持ちを吐き出そうと思う。

 くそじじぃに言いたい。独り言やめろ。あいつは毎朝毎朝ひとりごとをいう。「おいっしゃ!」とか「あうやああ!」とか、わけのわからない独り言だ。それがうるさくて私は毎日朝早く目覚めてしまう。ほんと死んでほしい。老人の朝は早いから私は大迷惑なのだ。そして独り言は朝早くだけではない。夜もだ。「ういういういうい」と不気味な感じでひとりごちながら彼は自分の寝室で横たわっている。いや寝室じゃなかった。ゴミ部屋だ。あいつの部屋には何があっても絶対に入りたくない。彼は尿が漏れるということでオムツをしているのだが、その不要になったオムツが彼の部屋の床にたくさん落ちていて、とてつもなく臭い。いつもお母さんが片付ける。あいつに言ってもいうことを聞かないからだ。でもそれだけじゃない。あいつの使っている布団はもう何年も洗っていないから変な匂いがするし、床にはオムツだけじゃなく、洗っていない服がたくさん散らかっている。本棚には読みもしないたくさんの本が大量の埃をかぶっているし、仏壇に供えられたお供え物はすでに腐っていた。お母さんもできるだけのことはあいつにしているが、全部が全部完璧にできるわけじゃない。っていうかあいつの世話なんか焼かずに、いっそのこと早く殺した方が私たちは楽になると思っている。早く死ね! と毎日のように思っているが、なかなか奴はくたばらない。本当にどうにかしなければ。

 

 

 毎日忙しい日々を生きながら、最近思うようになってきた。娘が反抗期に入った、と。特に気になるのは娘が私の父をとても嫌っているということだ。見ているだけでもそれは明らかだった。父が耳障りな咳をごほごほとすれば、それを見ている娘は大げさなため息をつき、その後は扉を乱暴に締めて自分の部屋に行ってしまうからだ。私も彼をできるだけ助けたいという気持ちはあるが、すべてをやりきることはできない。仕事もあるし、娘の世話も大変だからだ。まだ幸いなのは父が自分の力で動けることだった。もし寝たきりにでもなってしまえば、私は一体どうなるのか、と想像しただけでも恐ろしい。

 娘がそうであるように、私もときどき父に腹が立つことがある。仕事で疲れて帰ってきた後、せっかくゆっくり浸かろうと思って入ったお風呂の中に、父の便らしきものが浮いていたときは、はらわたが煮え繰り返る思いをした。

 だけど、彼はまだ動けるし、自分のことは自分でできるのだから、施設にもいれられない。いれようと思えばいれられるのだが、彼が嫌がるのだ。だったらあんたの汚い部屋を少しでも綺麗にしろよ、と毒づいたこともあった。それでもなんとか堪えて、私はできる限りのことを父にしてきたつもりだった。

 でも、もう限界は近いのかもしれない。

 

 

 また嫌なことがあった。奴が最近ラジオを聴くようになったのだ。最初は自分の寝床でしか聞いていなかったのに、日が経つにつれ、リビングでも聴くようになった。朝、私たちが起きてくると、ラジオの音が聞こえる。それが無性に腹立たしい。なんで私達の許可も取らずにそんなことしてんの!? と怒鳴りたくなった。でも私は声を荒げることはない。自分の胸の中に収めるのだ。もし声を荒げても、どうせお母さんに何か言われるだけだろうから。お母さんは 私が奴の悪口を言うと、そんなこと言っちゃダメでしょ、と注意してくる。それが嫌だから私は奴への不満は全て自分の中に溜め込む。でもお母さんだって本当は嫌な思いしてんじゃないの? って一回聞いて見たいけど、またうるさく言われそうだったからやめておいた。

 今まで溜め込んだ嫌な思いが早く爆発してほしいと思う。そうすれば、私はなんのためらいもなく彼を衝動的に殺すことができるから。じゃあ、もっと嫌なものを溜め込まなきゃ、ということになるが、なんかそれも違う気がする。そうやって考え出すと私は自分自身がよくわからなくなる。

 今日の朝もリビングではラジオが流れていた。平日はラジオ体操とかが流れているのに、今日は休日で起きる時間がいつもと違ったせいか、変な暗いお話が流れていた。音楽も暗いし、朗読する人の声も暗い。それを聴きながら最悪な気分で朝食を食べ終わり、私はすぐにピアノの練習を始めた。そうすればあいつはラジオの電源を切ることを私は知っていたからだ。案の定その通りになり、私は鼓膜が破れそうな大音量で鍵盤を叩く。いつものことだ。こうすればピアノの音が嫌いなあいつはさっさとリビングからいなくなるのだ。でもあまりやりすぎるとピアノの弦が切れるからよくないのだが。

 でも、私もそろそろ疲れてきた。もう限界は近い。

 

 

 あの男! 

 もう殺してしまおう。今日の出来事で踏ん切りがついた。

 朝はくちゃくちゃと音を立てながら朝食を食べる父の姿にストレスを感じ、会社では上司にちょっとしたミスで叱られた。そしてやっと今日も一日が終わったと少しほっとした気持ちで家に帰ってきて、リビングに入ると床に液体が広がっている。

 この臭いは……。   

 尿だ。

 こんなことをするのは父しかいない。トイレの扉を開けたまま用を足し、尿を流さずにそのままにするだけでは飽き足らず、ついにリビングでお漏らしをするまでに至ったか。私は大きくため息をついた。また掃除しなければいけないと思ったが、先ほどから自分が尿意を感じていたことを思い出してまずはトイレに入った。

 だが……。

 便器の中を見て、私は愕然とした。

 奴の大便が、流されずに残っていたのだ。

 私の中で、何かがプツンと切れた。

 殺す!

 私は用を足すもの忘れリビングに早足で向かった。包丁を手に持つと今度は父の部屋に急行する。中に入った途端、床に放り出されたままになっている大量のオムツからアンモニアの異臭が漂ってきた。襖を挟んだ向かい側の部屋には布団を頭までかぶった父が寝ている。

「あぎゃうああああああああああ!」

 私は無我夢中で突進し、寝ていた父めがけて包丁を振り下ろした。

 ぐさっ!!

「あおうっ!」

 心臓をひと突きし、ぐいっと二回ほどえぐっておいた。

「ぎゃああっ!」

 父から悲鳴が漏れた。ざまあみろ。

 ん?

 でもおかしい。これは父の声じゃない。激しく興奮していたせいで最初の悲鳴を聞いた時に気づかなかったのだろうか。

 私は恐る恐る布団をめくってみる。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああ!」 

 

 

 お母さんが殺したのはじじぃではなく、私だった。母も多分疲れていたんだろうと思う。そろそろ私のように限界がくるのは時間の問題だった。私たちはお互いを観察して疲れていることを知っていた。どちらかが健全な心を持っていれば相手を助けられるのかもしれないが、私たちはどちらも病んでいたからダメだった。それを悟った時、私は死にたいと思った。奴を殺せば問題は全て解決するけど、私にはやっぱりその勇気がなかった。罪を被って警察に捕まるのも嫌だった。だから自分が死ぬことを決意した。

 でも首吊りとか、電車に轢かれて死ぬのは嫌だった。そんなふうに最期を迎えたくない。じゃあどうやって死ぬのが一番いいのだろうと考えた末にたどり着いたのが、お母さんに殺されるということだった。愛するお母さんが殺してくれるなら、私は死んでもいい。そう思った。

 こんな方法でもう死ぬことに成功してしまうなんて思ってもいなかった。でもそれは私の予感が鋭かったということなのかもしれない。なんとなく朝からピリピリしているお母さんを見て、もう限界なのかな、と感じた私は、お母さんが仕事から帰ってくる前に学校から戻ってきた。わざとリビングでお漏らしをして、それからトイレで大便をして流さずにしておき、あいつの臭い部屋にある臭い布団の中に潜り込んでお母さんが帰ってくるのを待った。

 さすがにじじぃを殺すことはしないかな、と思いながら、布団の中から帰ってきたお母さんの様子を伺っていた。すると一回トイレに入ったお母さんがリビングに早足で歩いていくのが見え、それからドタバタと私がいる部屋に駆け込んできた。手には包丁を持って。

 その瞬間、お母さんは意味不明な雄叫びをあげて私の胸をぐさりと射した。そして心臓をえぐられた。そこで私の意識は完全に途切れ、後のことはもうわからない。

 とても痛かったけど、幸せだった。もう自分は死んだから、奴のことでストレスを感じることもない。それに愛するお母さんに殺されたんだから、普通に死ぬよりよっぽどいい死に方だと思う。

 お母さん、ありがとう。

 

 

 娘を殺してしまった。私は……私は、もうどうしていいかわからない。頭がぼうっとしている。

 あ、父が帰ってきた。

 よくよく考えれば、今日はデイサービスの日だった。父が帰ってくるのはいつも私が帰宅する後だったのに、どうしてそのことに気づかなかったのだろう。

 母親失格だ。娘になんて謝ればいいのか。ごめんなさいなんていうありきたりな謝罪じゃ、私の良心が許さない。なら、考えられる答えはただ一つ。

 私も、死のう。

 それが、私の精一杯の謝罪だ。いや、もしかしたら私が死んだらあの世で娘に会うことができるかもしれない。だったらそこで娘にきちんと謝ろう。許してくれるなんて思っていないけど、そこからでも私たちはやり直せる。

 でもこのままじゃ死ねない。父を始末するまでは。

 そもそもあいつがいなければこんなことにはならなかったのだ。全てはあいつのせいだ。

 後ろに父の気配がした。

 私は振り返る。

 目の前の凄惨な光景を目の当たりにしたせいか、父の目は飛び出しそうになっている。血しぶきを浴びた私の姿を見て、さらに父の眼が見開かれた。

「こ、こ、れは……」

 私は、包丁を振り上げた。

老いは崩壊への源

​Author: Saito Rei

bottom of page