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ずっと泣いてた。なぜだろう、今となってはその理由も分からない、けど、ずっとずっと泣いてた。
ただ、親類が死んだ、それだけのこと。あの時の私に、死というものは分かってなかったと思う。だから、悲しくて泣いたの、とは言えない。きっと、その場の空気が私に囁いたんだ。泣けって、泣けば君は良い子だよって。
泣いて、泣いて、泣いて。
だから、途中で思ったんだろう。

兄は、なんで泣いてないんだろうって。
兄は、悪い人だって。
兄が、気持ち悪いって。

「ねえ、兄ちゃんは、なんで泣かなかったの?」
いつ聞いたのか、覚えてないけど、それは確かな記憶。
泣いた次の日か、次の週か、次の月か、そう聞いた。
私の責めるような目を知ってか知らずか、微笑んで。
私を見ながら、呟いた。
「だって、どうにもならないから」

それは、私の小さな時の記憶。

「ねえ、前の作品、意味分かんなかったんだけど」
「ああ、あれは、ちゃんと改訂したから」
 暇な時に読んで、また感想聞かせて。
 そう言い残して、兄は家を出る。居酒屋の夜のバイト。大変らしい。お前には多分無理だろうって言われたけど、私も同じ意見。自分なら、きっと無理だろう。二日目で、客と喧嘩して、終わるのが目に見えてる。
 だけど、兄は、弱腰だ。
 誰から理不尽なことを言われても、決して自分の意見を通さない。いつも引いて、引いて、相手に合わせて。
 そして、疲れたような表情で帰ってきて。

 なんで?
 不満なところ見せたら、もっと面倒になるから。
 なんで分かるの?
 この前そうだったから、今度もきっと。

 またかと思って、聞くのを止めた。
 前と同じだから、昔あったから、不確定要素だから。

 兄が住んでいるのは、いったいいつなんだろう。
 あなたが住んでるのは、今じゃないの?

 好きな哲学の話だってそうだ。あの人はこうだと言った、だけどこの人はこうだと言っている、それではこの命題はどう考えるべきか、それをその人がまとめた。
 ない、ない、今を生きるあなたの意見が、ない。
 兄は現実を嫌っているのか、いや、そんなようには見えない。誰かによって、自分の意見を封じられているのか、いや、オカルトの見過ぎだ。
 知ってる、兄は賢い、ただ、それだけ。
 凡人が十年掛けて生み出した言葉より、カントが書いた一片の言葉の方が重いことを、兄は知ってるから。
 そして、その一片一片が紡いだ一冊の本の前に、自分の存在さえもかすれてしまうものだと知ってるから。
 今を生きる意味がないなら、過去に縋って、なんて。
「馬鹿みたい」
 居間の兄に、聞こえるように呟く。何を勘違いしたのか兄は、二ヘラと笑って謝って。嫌になって、部屋を出て。
 せめて、理由だけでも聞いてよ。なんで、そうすぐに、謝るの。今のは私が悪いのに、昔の経験から自分が悪い、そうすぐに結論付けて、だから、嫌い。
 だから、私は絶対にこうはならないと意気込んで。
 絶対に、今を生きてやろうって、思って。
ごめんね。
本当に、ごめんね。

いつも通りの夜。満月に雲が掛かった、素敵な夜。
周囲を紅に照らす赤色灯、私の体を真っ赤に染めて。
倒れた兄を、ただ茫然と眺めるしかできずに。
「なん、で」
大学の近く、通り魔。胸部を後ろから。
この日に限って口論だとか、誰かを守ろうとしたとか、そんなの全く関係なく、ただ、刺された。
ただの一被害者として、命の灯火が消えていく兄。
悲しいとか、何も、何も考えられなくて、とにかく傍に寄り添って、顔をくしゃくしゃにして、その手を握って。
血の気が引いていく表情、いや、兄が過去の人になっていく。嫌だ、兄は、今を生きてるんだ。今を、生きて。
「な、あ」
 弱弱しい声、私に語り掛けてきて、耳を口元に寄せる。
 実は、違う言葉だったのかもしれない。私の耳が、都合よくそう聞こえさせただけかもしれない。
 だけど、小さな小さな声、口元、確かに。

俺のこと、なんて、忘れて、生きろ
 
 そして、動かなくなった兄に、私は、気付いて。
 泣いて、泣いて、泣いて。
ああ、私はなんて勘違いをしてたんだろう。
いつの日か、言ってたじゃないか。
だって、どうにもならないから、って。
 あの言葉が、今を生きている以外の何になるんだ。
 人が死んだ、過去の出来事に、泣いて縋っていたのは私じゃないか。
 違う、縋ってたなんて、そんな生易しいものじゃない。
 哲学の話だって、いつも私に分かりやすい話ばっかりを選んでくれていたじゃないか。兄はただ、哲学の基本から教えてくれてただけじゃないか。
 居酒屋だって、過去のことに頼ってるから反論しない、なんて話じゃない。反論したら、辞めさせられるかもしれないから。家族に負担を掛けてしまうかもしれないから。
 そんな優しさを、今から逃げてるだなんて、私は言って。
 謝らなくちゃ、謝らなくちゃ。
 出てくる謝罪の言葉に、兄は全く反応せずに。
 ねえ、許してくれなくていいから。だから、聞いて。
 絞り出した声は、独特の音に掻き消されて。
 
 どうにもならない、けど。
 忘れることなんて、今を生きること、なんて。
 
 闇夜の満月、雲で欠け、そして、私は。

今を生きる兄と、私と

Author:Kota Kumano

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